地域情報コーナー
横穴墓と製鉄遺跡のこと 北條祐勝さんのお話から
1月29日、土曜の昼下がり。
11時から1時間、港南台駅頭で行った定例の街宣行動のあと、参加した有志4名がランチタイムもそこそこに向かったのは本郷地区センター。
「いたち川流域の横穴古墳と古代の技術者集団について」と題する昼下がりの「夜話会」に馳せ参じたのです。
栄区内に点在する横穴古墳のことや舞岡上郷線の下に眠る深田製鉄遺跡については、昨年5月9日&29日、また7月24日付けなどで取り上げ、会として舞上線の補修工事などによって破壊することのないよう市に対して申し入れていますが、今回はその歴史的由来や価値などについてレポートします。(I.T.)
鍛冶ヶ谷式横穴墓と製鉄遺跡のこと
先日、上郷の光明寺の先代住職で本郷郷土史研究会の代表である北條祐勝さんによる「横穴墓」についての講演会が本郷地区センターで開催されました。
郷土史に明るい方と思ってはいましたが、もともと大学でのご専門が中国西域の高昌(こうしょう)国、麹(きく)氏の研究ということで、広い視野から俯瞰した郷土の歴史が語られ、中身の濃いお話を聞くことができました。
以下、当日の北條さんのお話をベースに、興味深いポイントをいくつか挙げてみます。
イ) 深田製鉄遺跡の周りでは、昔から多量の鉱滓(製鉄時に出るカス、カナクソ)が転がっていて、村人はこれを集め道普請の際、砂利のように道に敷いていた。
ロ) 製鉄遺跡は、鉄から農具や包丁を作る野鍛冶(精錬)の跡か、鎌倉以前の刀鍛冶の跡と思われていたが、発掘してみるとさらに時代を遡った7世紀中葉から始まり約200年間続いた製鉄(製錬)遺跡であることがわかった。驚くとともにその重要性に鑑み当面は埋め戻して保存し、然るべき時にじっくり再調査することとなった。
ハ) 先の発掘調査時にはその時の地面から4メートルしか掘り下げておらず、その下にも、また尾根の上の方にも未発掘の部分が残されている。
ニ) 鎌倉以前の刀は俘囚集団(朝廷に帰属した蝦夷)の作っていた舞草(もぐさ)刀を源流とするもので、舞草刀は餅鉄と呼ばれる砂利状の(磁石に付く)原料から作られていた。白山神社も東北系であり馬頭を守護神とし、鍛冶と関係が深い。
ホ) 朝鮮半島を経由してやって来た渡来人の秦(はた)氏や漢(あや)氏などは、製鉄・製塩・養蚕・機織り・建築土木技術・朱砂(水銀から作る朱)などの先進技術を持っていて、大和朝廷により地方に移住・派遣させられた。機織りの機(はた)はもともと秦であっただろう。
ヘ) 縄文後期・奈良時代の住居跡が発掘された現在の横浜栄高校が建っている所は、猿田と呼ばれているが、朱と関係の深い猿田彦とのからみも考えられる。渡来人集団が住んでいたのではないか。
ト) 鍛冶ヶ谷式横穴墓はその特徴として、玄室の奥にさらに小さな棺室が設けられているが、火葬による遺骨の少量化があってのお墓であろう。火葬という習慣もその当時日本にはなく、鍛冶ヶ谷式横穴墓は渡来人が作ったものではないか。ますます製鉄との関連が強い。(舞上線を挟んで製鉄遺跡の反対側の山腹に横穴墓が2基存在する。)
チ) 仏教では世界は、水・火・土・風・空でできていると考えられていて、人が亡くなると、その何れかに戻るものとされている。従って、それらの元素の後に葬をつけた埋葬の方法が存在する。インドでは水葬……河に遺体を流すが、ワニが後を引き受けることとなる。ワニは神格化されていてクンビーラとよばれている。日本の金毘羅(こんぴら)はこれに由来する。
注:高昌(こうしょう)は中国の南北朝時代から唐代にかけて現在の新疆ウイグル自治区のトルファン地区に存在したオアシス都市国家。麴氏は高昌国の王、麴嘉(きくか。生没年不詳、在位501年頃~ 525年頃)にちなむ。

人気講座だが、あるいは追加申し込みが可能かも?
注:本郷地区センター ☎892-5310
◆重要なお知らせ
ブログはHP(ホームページ)と違って制作&発信がたやすい反面、過去の記事の検索が難しいのですが、たとえば本件のような場合、ページ左の「過去の記事」コーナーで2010年5月または7月をクリックすると当該記事を読むことができます。(ブログ制作本舗)
1月29日、土曜の昼下がり。
11時から1時間、港南台駅頭で行った定例の街宣行動のあと、参加した有志4名がランチタイムもそこそこに向かったのは本郷地区センター。
「いたち川流域の横穴古墳と古代の技術者集団について」と題する昼下がりの「夜話会」に馳せ参じたのです。
栄区内に点在する横穴古墳のことや舞岡上郷線の下に眠る深田製鉄遺跡については、昨年5月9日&29日、また7月24日付けなどで取り上げ、会として舞上線の補修工事などによって破壊することのないよう市に対して申し入れていますが、今回はその歴史的由来や価値などについてレポートします。(I.T.)
鍛冶ヶ谷式横穴墓と製鉄遺跡のこと
先日、上郷の光明寺の先代住職で本郷郷土史研究会の代表である北條祐勝さんによる「横穴墓」についての講演会が本郷地区センターで開催されました。
郷土史に明るい方と思ってはいましたが、もともと大学でのご専門が中国西域の高昌(こうしょう)国、麹(きく)氏の研究ということで、広い視野から俯瞰した郷土の歴史が語られ、中身の濃いお話を聞くことができました。
以下、当日の北條さんのお話をベースに、興味深いポイントをいくつか挙げてみます。
イ) 深田製鉄遺跡の周りでは、昔から多量の鉱滓(製鉄時に出るカス、カナクソ)が転がっていて、村人はこれを集め道普請の際、砂利のように道に敷いていた。
ロ) 製鉄遺跡は、鉄から農具や包丁を作る野鍛冶(精錬)の跡か、鎌倉以前の刀鍛冶の跡と思われていたが、発掘してみるとさらに時代を遡った7世紀中葉から始まり約200年間続いた製鉄(製錬)遺跡であることがわかった。驚くとともにその重要性に鑑み当面は埋め戻して保存し、然るべき時にじっくり再調査することとなった。
ハ) 先の発掘調査時にはその時の地面から4メートルしか掘り下げておらず、その下にも、また尾根の上の方にも未発掘の部分が残されている。
ニ) 鎌倉以前の刀は俘囚集団(朝廷に帰属した蝦夷)の作っていた舞草(もぐさ)刀を源流とするもので、舞草刀は餅鉄と呼ばれる砂利状の(磁石に付く)原料から作られていた。白山神社も東北系であり馬頭を守護神とし、鍛冶と関係が深い。
ホ) 朝鮮半島を経由してやって来た渡来人の秦(はた)氏や漢(あや)氏などは、製鉄・製塩・養蚕・機織り・建築土木技術・朱砂(水銀から作る朱)などの先進技術を持っていて、大和朝廷により地方に移住・派遣させられた。機織りの機(はた)はもともと秦であっただろう。
ヘ) 縄文後期・奈良時代の住居跡が発掘された現在の横浜栄高校が建っている所は、猿田と呼ばれているが、朱と関係の深い猿田彦とのからみも考えられる。渡来人集団が住んでいたのではないか。
ト) 鍛冶ヶ谷式横穴墓はその特徴として、玄室の奥にさらに小さな棺室が設けられているが、火葬による遺骨の少量化があってのお墓であろう。火葬という習慣もその当時日本にはなく、鍛冶ヶ谷式横穴墓は渡来人が作ったものではないか。ますます製鉄との関連が強い。(舞上線を挟んで製鉄遺跡の反対側の山腹に横穴墓が2基存在する。)
チ) 仏教では世界は、水・火・土・風・空でできていると考えられていて、人が亡くなると、その何れかに戻るものとされている。従って、それらの元素の後に葬をつけた埋葬の方法が存在する。インドでは水葬……河に遺体を流すが、ワニが後を引き受けることとなる。ワニは神格化されていてクンビーラとよばれている。日本の金毘羅(こんぴら)はこれに由来する。
注:高昌(こうしょう)は中国の南北朝時代から唐代にかけて現在の新疆ウイグル自治区のトルファン地区に存在したオアシス都市国家。麴氏は高昌国の王、麴嘉(きくか。生没年不詳、在位501年頃~ 525年頃)にちなむ。

人気講座だが、あるいは追加申し込みが可能かも?
注:本郷地区センター ☎892-5310
◆重要なお知らせ
ブログはHP(ホームページ)と違って制作&発信がたやすい反面、過去の記事の検索が難しいのですが、たとえば本件のような場合、ページ左の「過去の記事」コーナーで2010年5月または7月をクリックすると当該記事を読むことができます。(ブログ制作本舗)