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本郷れきし夜話-その2

「鍛冶ヶ谷式」と渡来人の謎に迫る  北條祐勝さん:本郷れきし夜話-2 

北條祐勝氏(前光明時住職)による本郷れきし夜話「いたち川流域の横穴を作った人々についての推論」第2回講座が2月19日(土)午後、本郷地区センターで開かれました。

1月29日(土)に開催された第1回に引き続きこの日も夜ではなく昼の時間帯でしたが、およそ50名ほどの市民が広い集会室のテーブルの上に並べられた遺跡の写真や地図を囲むかたちで座り、北條さんの横穴墓と深田製鉄遺跡との関連や光明寺の来歴、また地元上郷と本郷の町の由来などについての話に熱心に聴き入りました。

■お話の概要メモ
いたち川の上流域には、「金」のつく地名が多く、上郷町の谷戸には「カナクソ」と呼ばれる斜面もある。近くには鍛冶ヶ谷の地名もあり、地元の人たちは刀鍛冶の遺構の存在を予想していたそうだ。
ここに都市計画道路・舞岡上郷線が建設されることになり、昭和61年に発掘調査が行われ、製鉄遺跡があることがわかった。深田製鉄遺跡である。
発掘された製鉄用の炉や製銅用の炉、住居跡や遺物などから、7世紀中頃から9世紀中頃にかけての200年間、この場で製鉄が行われていたことが明らかになった。

それではいたち川流域で製鉄を行っていた人たちとはどのような人たちであったろうか。
4世紀から7世紀にかけて、大陸から多くの渡来人たちが日本に渡ってきたが、彼らは土木や稲作、機織り、土器製作、医療などの技術を日本に伝えた。特に朝鮮半島の戦乱から逃れて日本に渡ってきた秦氏や漢氏などの一族は日本各地に配置させられ、大きな役割を果たした。
彼ら渡来人がいたち川流域に多く居住していたのではないかと推測させる根拠が「いたち川流域横穴古墳群」の存在である。

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鍛冶ケ谷の横穴墓を見学する署名の会の保全チーム
(2010.2)
横穴墓が造られたのは7世紀だが、いたち川流域にある横穴墓には棺を納める玄室のさらに奥室とも言うべき部屋を持つ「鍛冶ヶ谷式」と呼ばれるものがある。内部は極めて小さく、木棺を納めるのは難しい。
小さな奥室は火葬骨または洗骨を納めるものだったと思われ、これらは当時の一般的な葬法ではなかった。そのため、「鍛冶ヶ谷式」は土地の有力者のためのものではなく、渡来人が造ったものではではないかと推測されるのである。そしてその渡来人こそが、製鉄という特殊な技術を有する業に携わっていたのではないだろうか。

編集部注:本郷生まれ本郷住まい
ちなみに北條祐勝さんは東京・本郷生まれで、栄区の本郷地区在住と“本郷づくし”だそうです。
なお明治17年(1884)の町村合併により誕生した「本郷村」は鍛冶ケ谷、上野(かみの)、中野、桂、公田、笠間、小菅ケ谷の7つの村からなり、明治30年末の戸数は438戸、人口3010人とある。(『戸塚区史』より)
プロフィール

上郷/署名の会

Author:上郷/署名の会
横浜7大緑地の1つ「瀬上市民の森」に連なる瀬上沢はホタルの自生地として知られ、貴重な動植物が生息する自然の宝庫です。またみどり豊かな里山風景を今に残し、古代の製鉄遺跡や江戸時代に使われた横堰などの文化遺産も眠る横浜市民共有の財産とも言うべき緑地です。
その瀬上沢に大規模な上郷開発計画が浮上したのは2005年。瀬上沢を愛し、それぞれに保全運動をしてきた市民は、2007年6月に「上郷開発から緑地を守る署名の会」を結成、開発計画の中止と緑地の全面保全を求める活動を開始し、同年12月、市内全域はもとより全国各地から寄せられた92000筆あまりの署名を添えて横浜市長と市議会に陳情書を提出しました。
2008年9月、横浜市都市計画審議会は計画を承認せず、「上郷開発事業」は中止となりました。しかし地権者でもある開発事業者・東急建設は引き続き「開発の意思」を表明。2012年1月、ついに第3次開発計画の事前相談書を横浜市に提出しました。私たち「署名の会」はあらためてこの開発プランの問題点を指摘、瀬上沢の全面保全を求めて新たな活動を開始しました。
そして2014年1月に始まった新たな動きがいま地域の住環境・自然環境を揺るがす重大な岐路に……。

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