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瀬上沢通信員だより:スペシャル

護念寺縁起と江戸時代の緑地保全策 その3
煩悩に取り憑かれた愚行を駁す

時の指導者は、森林崩壊⇒文明崩壊を予見して未然に手を打ち前述の諸施策で大ナタを振るい、さらにきめ細かい対応策(覆いのない炊事炉に代わって燃費のよい竈の設置、家全体を暖める習慣に代わる移動可能な小さい火鉢の使用、冬の暖房に太陽光(熱)の利用、身分別の家屋の間口制限、イトスギ・スギその他の良質な樹木の公共の看板への使用禁止、正月飾り用として承認されていた樹木の一覧から大きなマツを除外)を実施し、1660年代において、すでに日本は社会のあらゆる階層において森林利用を規制する全国的な取り組みに着手、1700年には森林管理の緻密なシステムを整えていたとのこと。

これを現代に当てはめてみると、栄区では人口が減少して行くのが見込まれ、実際にかつて開発された住宅地には、空き家が目立つようになってきている。それにもかかわらず、民間デベロッパーは開発を制限すべき市街化調整区域をなんとかして市街化区域に変えようと、緑地を保全するための各種法規の間隙を縫って画策している。

緑地を壊し不要な開発を行うことは先人達が残してくれた財産を無にすることであり、仏教でいう煩悩(物欲・金欲など)に取り憑かれた愚行であろう。 

自然は一度破壊されたら元に戻らない。                 
我々は、近世の「森林崩壊⇒文明崩壊」を喰い止めた優れた自然保全策をしっかりと受け継ぎ、さらに昨今声高に叫ばれている「生物多様性の追求⇒人間の幸福の増進」の理念を単なるお題目とせず、よい環境を後世に残したいものである。

注記:著者ジャレド・ダイアモンド博士のこと
ジャレド・ダイアモンド(1937年9月10日~)は、アメリカ合衆国の進化生物学者、生理学者、生物地理学者、ノンフィクション作家。
著書『銃、病原菌、鉄』で1998年度のピューリッツァー賞(一般ノンフィクション部門)、1998年コスモス国際賞を受賞した。また、1999年にアメリカ国家科学賞を受賞している。現在、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)教授。
マヤ文明など、文明が消滅した原因を考察し、未来への警鐘を鳴らした『文明崩壊』がある。


瀬上沢通信員だより:スペシャル

護念寺縁起と江戸時代の緑地保全策  その2
築城による乱伐後に森林再生へ

早速ネットで調べてみると、2005年に草思社から刊行された『文明の崩壊』の内容の一部が得られたので、以下紹介する。

江戸時代のはじめ、日本の森は危機に瀕していた。統一権力のなかった戦国時代に乱伐がおこなわれた上に、秀吉の時代にあいつぐ大規模な土木工事と朝鮮出兵のための大型船の建造、鉄の精錬で木材が大量に費消され、本州と九州と四国の原生林は一部を除いて壊滅状態だったというのだ。

さらにその後継者である将軍家康、そのほかの大名の多くが先頭に立ち、壮大な城や寺を建造して自己満足に耽ったり、互いを圧倒しようと試みたりした。

家康が築いた城のうち最大の3城だけで、約25平方キロの森林を伐採する必要があった。そして次代将軍のもとで、約200の城下町が生まれた。市街地の住宅建設が木材の需要の面で支配層の巨大建造物を上回った。1570年から1650年頃には建築の急増と森林乱伐が頂点に達した。

しかし、日本は次の2世紀のあいだに少しずつ、これまでよりずっと持続性のある資源消費率を達成してみせた。この方向転換は代々の将軍の上からの主導で行われた。幕府は森を復活させるために樹木1本1本の台帳をつくり、農民の利用を制限し、専任の管理者をおいて厳重に管理した。諸大名もそれにならった。今日に残る日本の森は江戸時代に200年余をかけて再生させた森だったのである。

同書下巻の記述だが、まさに護念寺の縁起はこの記述にピッタリと当てはまるではないか!

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護念寺の参道にある厠。目隠しに竹が使われている

(つづく)

瀬上沢通信員だより:スペシャル

護念寺縁起と江戸時代の緑地保全策  その1
樹林地守るため寺を建立

先日の円海山ウォークイベントで、護念寺のご住職からお寺の縁起について話を伺った。
要約すると、
・400年ほど前まで遡る念仏道場があったところに、徳川将軍の命で宝暦2年(1752年、将軍は9代家重)、あたり一帯の樹林地を護る目的で護念寺が建立された。
・寺は高僧の隠居寺として代々受け継がれてきた。
・第5代の萬随和尚が嘉永6年(1853年)、夢枕に拝授した灸を施してより円海山護念寺の名が広まり、「峯の灸」で知られるようになった。
・かつて杉田の磯で海苔養殖が盛んだった頃は、お寺の孟宗竹が海苔篊(のりひび)と、その浮きに使われた。油成分を多く含むこの地の竹は耐久性が高く好評で、伐採限度ぎりぎりまで切り出された。

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家重の肖像画(徳川記念財団蔵=ウイキペディアより)

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海苔ヒビ(富津市立富津埋立記念館資料から)

で実は「将軍が江戸時代、樹林地を護る目的で」とそこまで聞いたとき、最近目にした新聞の書評のことを思い出した。
あらためてスクラップにあたると、ジャレド・ダイアモンド博士が『文明の崩壊』という著書のなかで、日本では将軍のトップダウンによる施策により世界で唯一、森林保全に成功した国、と讃えている。

関連注記:富津における海苔養殖技術の変化
 竹ヒビ(たけひび) 孟宗竹を使用した海苔ヒビで、富津で海苔養殖が開始された昭和5年から使用された。海苔養殖の開始が早かった人見・青堀地区では江戸末期~明治時代から使用されていた旧来からの海苔ヒビで、昭和24年に化繊の海苔網が使用されるようになってからは少なくなったが、昭和30年代中頃までは補助的に使われていた。

(つづく)
プロフィール

上郷/署名の会

Author:上郷/署名の会
横浜7大緑地の1つ「瀬上市民の森」に連なる瀬上沢はホタルの自生地として知られ、貴重な動植物が生息する自然の宝庫です。またみどり豊かな里山風景を今に残し、古代の製鉄遺跡や江戸時代に使われた横堰などの文化遺産も眠る横浜市民共有の財産とも言うべき緑地です。
その瀬上沢に大規模な上郷開発計画が浮上したのは2005年。瀬上沢を愛し、それぞれに保全運動をしてきた市民は、2007年6月に「上郷開発から緑地を守る署名の会」を結成、開発計画の中止と緑地の全面保全を求める活動を開始し、同年12月、市内全域はもとより全国各地から寄せられた92000筆あまりの署名を添えて横浜市長と市議会に陳情書を提出しました。
2008年9月、横浜市都市計画審議会は計画を承認せず、「上郷開発事業」は中止となりました。しかし地権者でもある開発事業者・東急建設は引き続き「開発の意思」を表明。2012年1月、ついに第3次開発計画の事前相談書を横浜市に提出しました。私たち「署名の会」はあらためてこの開発プランの問題点を指摘、瀬上沢の全面保全を求めて新たな活動を開始しました。
そして2014年1月に始まった新たな動きがいま地域の住環境・自然環境を揺るがす重大な岐路に……。

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