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「評価委」の審議に向けて 討議資料―3

史跡が問いかける大規模開発の是非 県下で新たに3件が国の史跡に

国の文化審議会が11月21日に文部科学相に答申した国史跡の新規指定に、神奈川県内からは横須賀市の「東京湾要塞跡」(猿島砲台跡、千代ヶ崎砲台跡)、橘樹官衙(たちばなかんが)遺跡群(川崎市高津区)、下寺尾官衙遺跡群(茅ヶ崎市)の3件が盛り込まれています。

このうち明治以降の軍事施設の国史跡指定は全国初。また登録有形文化財(建造物)の新規指定には、茅ヶ崎市の「藤間(とうま)家住宅主屋」など2件が選ばれ、今回の答申で県内の国史跡は58件、登録有形文化財(建造物)は178件となったそうです。

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 毎日は11月22日朝刊で9段抜きで大きく報じた

毎日新聞によれば「下寺尾官衙遺跡群」、「橘樹官衙遺跡群」はともに7世紀後半から8世紀前半の地方行政組織で、現在の地方自治体にあたる役所の実態と推移を知る上で重要かつ希少な遺跡とされ、奇しくも上郷深田製鉄遺跡の操業時期と年代的に重なります。

しかも橘樹官衙遺跡群は川崎市で初の国史跡となったのですが、実は武蔵国橘樹郡は横浜・川崎にまたがる広大な郡域を有していただけに、今後あるいは横浜市域でも官衙遺跡群が?

他方、円海山もその一翼に連なる「いるか丘陵」の東端にあたる横須賀の東京湾要塞跡は明治時代、陸軍が首都防衛のために建設した要塞の遺跡で、32か所の砲台、海堡(かいほう)跡などで構成されています。
今回指定されるのは猿島砲台跡、千代ヶ崎砲台跡の2か所で、2か所とも建造当時の姿を良好にとどめており、近代の軍事・建築技術を理解する上で重要とされています。

注1:橘樹郡の郡域(「ウイキペディア」から)
1878年(明治11年)に行政区画として発足した当時の郡域は、概ね下記の区域にあたる。
横浜市 鶴見区、神奈川区の全域、西区の一部(同年に設置された横浜区に属した区域[を除く)
保土ケ谷区の一部(上星川、川島町以北および今井町を除く)
港北区の一部(新羽町、北新横浜、新吉田東、高田東、高田町以西を除く)

川崎市 川崎区、幸区、中原区、高津区、宮前区、多摩区の全域
麻生区の一部(金程、高石、百合丘、東百合丘以東)

注2:「いるか丘陵」って何? 
多摩三浦丘陵は、高尾山の東に発し、境川と多摩川に挟まれて町田市から横浜市中央部を貫いて南東に伸び、逗子・横須賀から三浦半島先端・城ヶ島にいたる全長70km、面積700k㎡の丘陵ベルトです。その広がりを宇宙から見ると、町田市西部の多摩丘陵の尾根をくちばし、鶴見川源流の森を瞳、川崎・鶴見の市街地を背びれ、金沢・円海山一体をしなやかな腰、そして三浦半島先端地域をジャンプする尾びれとする、巨大なバンドウイルカの形に見えることから、<いるか丘陵>とも呼ばれています。(いるか丘陵ネットワークのHPから)
 

■追記:横浜市にある「国史跡」一覧
・大塚・歳勝土遺跡(おおつか・さいかちどいせき)
・旧横浜正金銀行本店(きゅうよこはましょうきんぎんこうほんてん)
・三殿台遺跡(さんとのだいいせき)
・称名寺境内(しょうみょうじけいだい)
・朝夷奈切通(あさいなきりどおし、あさひなきりどおし)〔鎌倉市・横浜市〕

「評価委」の審議に向けて 討議資料―2

上郷深田遺跡とはどういうもの? 解明待たれる県内唯一の製鉄遺跡

12日に迫った、市の「都市計画提案評価委」による東急建設への24項目に及ぶ「確認事項」の回答期限。
ここであらためて注目すべき確認事項(質問書)の一つが17番目にあげられた舞岡上郷線道路下に眠る深田製鉄遺跡等の埋蔵文化財問題です。

私たちは上郷瀬上における貴重な文化財の発掘・調査・保全を求めて、担当部局である教育委員会はじめ市長・市会に対して重ねて要望書を提出、またこれまでも遺跡に関するレポートを何度か掲載(2010.7ほか)しているのですが、文化遺産・史跡保存の必要性について国民的な関心が高まる中、深田遺跡をどう位置づけ、発掘・調査・保全そして市民への公開への道筋を示すか、東急建設の回答、またそれに基づく評価委における教育委員会の対応に注目しています。

以下、上郷開発事業計画案において深田製鉄遺跡問題を考えるにあたって第三者的な視点をふまえておくため、横浜市埋蔵文化財センターのHPに掲載されたQ&Aから。(『埋文よこはま』21号=2010.2月刊、調査報告)

7世紀中頃から9世紀前半に造られた

Q : 上郷深田遺跡について教えてください
栄区上郷町にある製鉄遺跡について、次の3つについて教えていただきたいと思います。
質問1 古代の製鉄に際して、大和王権の製鉄は初期は岩鉄(鉄鉱石)を使用していたと聞きましたが、上郷深田遺跡で行なった製鉄の原料としていたのは鉄鉱石と砂鉄のどちらでしょうか?
質問2 その原料はどこから採取されたと考えられていますか?
質問3 私は作られた鉄は大和王権の対蝦夷の武器に使用したものと推測していますが、いかがでしょうか? 
*遠藤吉隆(港南区)さんからのご質問

A 上郷深田遺跡は、1986年に舞岡上郷線整備事業に伴って発掘調査された神奈川県内で唯一の製鉄遺跡遺跡として知られている遺跡です。 南東向きの急斜面をひな壇状に削りだし平場を造り、そこに製鉄関係と思われる18基の炉(うち14基は製錬炉)や鍛冶炉(小鍛冶)を有する竪穴状遺構、多量の砂鉄が底面に接して検出された竪穴状遺構や柱穴列など多くの遺構が構築されていることが分かりました。これらの遺構は、出土遺物の特徴から7世紀中頃から9世紀前半に造られたものと考えられています。また、遺物の中には藤原宮出土の土器に代表されるような畿内の暗文(あんもん)の入った盤状坏なども確認されています。
では質問にお答えします。

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  上郷深田遺跡で見つかった製錬炉(左)と特殊遺構(右)

質問1の製鉄に関わる原料についてですが、上郷深田遺跡の製鉄炉の壁面部材に付着している成分や鉄滓(てっさい)と呼ばれる鉄を作る際に発生するカスの成分を東京工業大学の川野邊教授(当時)に分析を依頼したところ、その成分から砂鉄を原料としていたとの、中間報告が出されています。

質問2の原材料の採取場所ですが、こちらはどこであるか特定されていません。遺跡の基盤層である上総層群の野島層などに砂鉄分が含まれていることは知られていますが、いくつもの精錬炉を繰り返して操業するためには、大量の土を砕いて砂鉄を採取しなくてはならず、こうした砂鉄を採掘したと考えられるような痕跡が周辺にないことから、七里ケ浜や稲村ケ崎のように容易に砂鉄が採取できるところから持ち込まれたと考える方が良いと思われます。

質問3の作られた鉄の使用目的ですが、こちらについても不明と言わざるを得ません。一般的に製錬作業とは原材料から鉄の塊を作り出す作業で、この作業で得られた鉄塊はさらに不純物等を取り除く作業(精錬)をしなければなりません。こうした工程をへてできた鋼をさらに小鍛冶と呼ばれる作業で製品にしていくのですが、上郷深田遺跡では小鍛冶を行なったと考える遺構は、わずかにひとつ確認されているだけで、この製鉄遺跡内で使用するための小規模な鍛冶(道具や日用品を作る)が行なわれていたのではないかと考えられています。ですから、上郷深田遺跡は主に精錬(製鉄)を行なう遺跡であって、この場所で武器等を作ることは行なわれていなかったのではないでしょうか。ただ、出土遺物の中には獣脚鋳型なども含まれており、未だ調査されていない部分に鍛冶炉が存在し、鉄製品や鋳造品を作っていた可能性は否定できないことを付け加えておきます。

時代は異なりますが、近世などの鍛冶場(いわゆる製鉄場)は一般的な集落から離れた位置に設けられたようです。これは、原料の調達(砂鉄・薪・粘土)、製錬~精錬~小鍛冶にいたる各種製造工程をこなすためには、河川に開析された沖積地縁辺の丘陵では成り立たなかったからでしょう。また、特殊な技術を必要とすることなどから、鍛冶関連を行なう人々だけでひとつの集落を形成していたようです。職種は違いますが、サーカスの集団みたいなものでしょうか。
近接した丘陵上には上郷猿田遺跡があります。この遺跡は縄文時代後期の竪穴住居跡のほか、上郷深田遺跡の製錬炉が操業していた時期の竪穴住居跡が検出されているため、上郷深田遺跡との関連性が考えられています。今後、周辺の発掘調査がなされることがあれば解明していくのではないでしょうか。


なお埋文のHPは次のURLをご覧ください。
Https://www.rekihaku.city.yokohama.jp/cms_files_maibun/pr_brochure/my21S.pdf

「評価委」の審議に向けて 討議資料―1

あらためて問われる開発の論理  「確認事項」への回答期限迫る!

それでなくとも慌しい年の瀬に、いきなり舞い込んだ衆院選。
投票日の14日(日)が1週間後に迫っているのですが、紅葉・黄葉に色づく上郷瀬上の自然愛好派にとって気がかりなのは、投票率を左右するという投票日の天候ではなく、東急建設による開発計画をめぐる動き。

市の都市計画提案評価委が東急建設に出した確認事項(質問書)への回答期限が12日なのですね。以下、評価委の第2回審議を前に、「確認事項」全文を当面の討議資料として掲載します。

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プロフィール

上郷/署名の会

Author:上郷/署名の会
横浜7大緑地の1つ「瀬上市民の森」に連なる瀬上沢はホタルの自生地として知られ、貴重な動植物が生息する自然の宝庫です。またみどり豊かな里山風景を今に残し、古代の製鉄遺跡や江戸時代に使われた横堰などの文化遺産も眠る横浜市民共有の財産とも言うべき緑地です。
その瀬上沢に大規模な上郷開発計画が浮上したのは2005年。瀬上沢を愛し、それぞれに保全運動をしてきた市民は、2007年6月に「上郷開発から緑地を守る署名の会」を結成、開発計画の中止と緑地の全面保全を求める活動を開始し、同年12月、市内全域はもとより全国各地から寄せられた92000筆あまりの署名を添えて横浜市長と市議会に陳情書を提出しました。
2008年9月、横浜市都市計画審議会は計画を承認せず、「上郷開発事業」は中止となりました。しかし地権者でもある開発事業者・東急建設は引き続き「開発の意思」を表明。2012年1月、ついに第3次開発計画の事前相談書を横浜市に提出しました。私たち「署名の会」はあらためてこの開発プランの問題点を指摘、瀬上沢の全面保全を求めて新たな活動を開始しました。
そして2014年1月に始まった新たな動きがいま地域の住環境・自然環境を揺るがす重大な岐路に……。

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