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鍛冶ヶ谷の横穴墓群のこと

上郷深田遺跡に連なる墳墓

鍛冶ヶ谷の「横穴墓」について調べてみました。
横穴墓(よこあなぼ)とは古墳時代後期を中心としたの埋葬方法のひとつで、崖面や斜面に横穴を穿(うが)って死者を埋納する施設(お墓)のこと。
「鍛冶ヶ谷市民の森」予定地で見たのは「宮の前横穴墓群」と呼ばれる遺跡で、5群25基の横穴墓から構成。詳しい発掘調査資料は未見なのですが、この地域独特の形態であり「鍛冶ヶ谷式」と呼ばれているとか。

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で、ウイキペディアの「七石山(しちこくやま)横穴墓群」の項には以下の記述があります。

いたち川流域をはじめとする南関東の丘陵部辺縁には、掘削しやすい土質の傾斜が多く、横穴墓が多く築造された。特徴は近隣の地名をとって鍛冶ヶ谷式とよばれる。アーチ型の断面で、よく発達した玄室の奥に小型の奥室をもつ復室構造であること、羨道は存在しないか、またはかなり退化していることが挙げられる。人骨のほか、土師器須恵器類、勾玉管玉類、鉄剣鉄刀類、耳鐶などが出土している。年代観としては古墳時代終末期から奈良時代までに幅広く編年され、継起的に造営されたことを伺わせる。この地域の有力首長層、富裕農民層らの墳墓と考えられている。

ここで言う「玄室」とは棺を納置する部分で、「奥室」は「棺室」とも呼ばれています。
横穴古墳がもっぱら作られたとされる7世紀前後、遺骸は木棺に納めるのが普通で、小さな奥室は火葬骨または洗骨が納置されたようで、同じ鍛冶ヶ谷の中居丸山横穴墓群の奥室からは小児の顎の骨や歯などが出土したそうです。

一方、縄文時代&奈良時代の竪穴住居跡とされるのが「上郷猿田遺跡」。あいにく県立上郷高校(今の横浜栄高校)の建設工事で失われ、今は瀬上沢への北ルート入口、同校グラウンド下の掲示に痕跡を残すのみですが。
また、こうした墓域や集落の跡ではなく、生産遺跡として注目されたのが、製鉄用の精錬炉や溶鉱炉の跡とされる「上郷深田遺跡」。ちょうど上郷開発予定地とされた緑地のうち、今の舞岡上郷線の西側部分に眠っています。
……樹林地や里地の下から発掘された埋蔵文化財に秘められた歴史のロマンに思いをはせながら、瀬上沢緑地の保全への方策を追求していきたいものです。

注:横浜市ふるさと歴史財団「埋蔵文化財センター」のHP、栄・戸塚区の遺跡展資料、戸塚区史などを参考にまとめました。
●財団法人「横浜市ふるさと歴史財団」埋蔵文化財センター
JR根岸線「港南台」駅 2番バス乗り場より神奈中バス港36・37・86系統「上郷ネオポリス」行き、終点「上郷ネオポリス」下車徒歩1分 または港40系統「栄プール」行き「上郷ネオポリス」下車徒歩1分 電話045-890-1155 

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深田製鉄遺跡に連なる蘊蓄

数年前、横穴墓に興味を持ち、鵠沼女子高の地歴研究部が50年以上前にこの「宮ノ前横穴墓群・中居横穴墓群」について行った調査の報告書を、栄図書館から借りて読んだことを思い出しました。
この報告書では、鍛冶ヶ谷式をさらに細分し、棺室(奥室)の入口の形が方形の物を A式、半円形の物を B式と分け、その数の比較等から、A式の方に格の高い人を葬ったのではないかと推測しています。確かに A式の方は数が少なく、かつ大きく立派に見えました。
本郷台駅周辺の七石山横穴墓群から出土した遺物のいくつかは、野七里の埋蔵文化財センターに陳列されています。
因みに横穴墓は、日本の考古学の黎明期(明治20年頃)には住居として掘られたという説が主流であり、その後、大正初期まで「居穴か墓か」論争が続き、大正2年以降は集合墳墓というのが定説になっているようです。詳しくは、Wikiで「吉見百穴」を参照ください。
製鉄遺跡に連なるロマンは次回に!

深田製鉄遺跡に連なる蘊蓄

1988年に発行された上郷深田遺跡発掘調査概報によれば、遺跡の辺りは、通称「カナクソ」と呼ばれ、地元の人々の間では、製鉄作業によって生じる「鉄滓」が出土することが古くから知られており、また、地元の郷土史研究会では中世の刀鍛冶の遺構が存在するのではないかと考えられていました。
‘85年の舞上線建設に伴い、この遺跡が工事区間に含まれていることが判明、横浜市道路局から委託を受けた横浜市埋蔵文化財調査委員会は、上郷深田遺跡発掘調査団を組織し調査を進めました。
調査を進めてみると、当初の予測に反し、極めて規模の大きい、中世どころか古代の製鉄遺跡であることが判明。その充実した内容から短期間での調査は不可能であること、また、計画されている道路の建設工事によって遺構が失われる恐れはない(埋め戻して保存が可能であること)との合意を得て、未調査の部分を残したまま埋め戻し現在に至っています。
従って、報告書は発掘調査概報となっています。県下でもその規模の大きさ、古さからいっても類を見ない製鉄遺跡とされています。(全国的に見ても、相当古い部類に属するといえるそうです)
この経緯を踏まえ、筆者は上郷開発が未だどうなるか分からない時に、開発を阻止する一助になればと市の教育委員会に電話をし、この発掘調査が未完のままの極めて重要な埋蔵文化財を調査するよう働きかけましたが、七石山横穴墓から出土した鉄剣のように「けんもほろろ」の対応でした。
横浜市の場合はまだ調べていませんが、一般的に教育委員会の委員なるものは、兼業で、月数回の委員会開催にもかかわらず、月給制で年間数百万円の報酬を得ている名誉職的な存在であり、開発を誘導している行政に楯付く訳がないのは浅墓にも後程知りました。
余談ですが、先進的な行政で有名な矢祭町の町議は日報30,000円の出来高払いであり、平均年収120万円であることが先日、新聞に出ていました。
おっと、ロマンを語るつもりが思わず現実に引き戻され、不満を語ることになってしまいました。
さて、この製鉄という先進技術を持った集団が大陸から渡ってきた帰化人ではなかったか、
そして、思いを馳せながら故郷の風習に従ってこの横穴墓を穿ち、死者を葬ったのではないかなどと、ロマンに満ちた推測に誰憚ることなく夢を膨らませることができるのは、(この時代から生き続けている者は誰もいないので)考古学のいいところであろうと考えます。
次回は、この仮説を唱える根拠、製鉄に係る興味深い言い伝え(ヒョットコ、粉鉄八里に炭三里、一風二土三村下、代わり番子)なぞについて紹介したいと思います。
追伸:管理人さんへのお願い
先日掲示板にブログ最新版の出し方についての質問が出ていたので、ブログについてもコメント欄があること、その開き方、書き込みのしかた等も読者に紹介してください。
プロフィール

上郷/署名の会

Author:上郷/署名の会
横浜7大緑地の1つ「瀬上市民の森」に連なる瀬上沢はホタルの自生地として知られ、貴重な動植物が生息する自然の宝庫です。またみどり豊かな里山風景を今に残し、古代の製鉄遺跡や江戸時代に使われた横堰などの文化遺産も眠る横浜市民共有の財産とも言うべき緑地です。
その瀬上沢に大規模な上郷開発計画が浮上したのは2005年。瀬上沢を愛し、それぞれに保全運動をしてきた市民は、2007年6月に「上郷開発から緑地を守る署名の会」を結成、開発計画の中止と緑地の全面保全を求める活動を開始し、同年12月、市内全域はもとより全国各地から寄せられた92000筆あまりの署名を添えて横浜市長と市議会に陳情書を提出しました。
2008年9月、横浜市都市計画審議会は計画を承認せず、「上郷開発事業」は中止となりました。しかし地権者でもある開発事業者・東急建設は引き続き「開発の意思」を表明。2012年1月、ついに第3次開発計画の事前相談書を横浜市に提出しました。私たち「署名の会」はあらためてこの開発プランの問題点を指摘、瀬上沢の全面保全を求めて新たな活動を開始しました。
そして2014年1月に始まった新たな動きがいま地域の住環境・自然環境を揺るがす重大な岐路に……。

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