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上郷開発予定地のこと

深田製鉄遺跡に連なる蘊蓄(ウンチク)

「鍛冶ヶ谷の横穴墓群のこと」のコメント欄にT.Iさんからの投稿が載っていました。
上郷開発予定地の西側部分に眠る「深田遺跡」に関するウンチクです。開発の波に洗われ、あわや破壊されかかった貴重な製鉄遺跡について転載、ご紹介します。(注:読みやすいように句読点など入れました。/ブログ制作チーム)


1988年に発行された『上郷深田遺跡発掘調査概報』によれば、遺跡の辺りは、通称「カナクソ」と呼ばれ、地元の人々の間では、製鉄作業によって生じる「鉄滓」が出土することが古くから知られており、また、地元の郷土史研究会では中世の刀鍛冶の遺構が存在するのではないかと考えられていました。
’85年の舞岡上郷線建設に伴い、この遺跡が工事区間に含まれていることが判明、横浜市道路局から委託を受けた横浜市埋蔵文化財調査委員会は、上郷深田遺跡発掘調査団を組織し調査を進めました。

調査を進めてみると、当初の予測に反し、極めて規模の大きい、中世どころか古代の製鉄遺跡であることが判明。その充実した内容から、短期間での調査は不可能であること、また、計画されている道路の建設工事によって遺構が失われる恐れはない(埋め戻して保存が可能であること)との合意を得て、未調査の部分を残したまま埋め戻し、現在に至っています。
従って、報告書は「発掘調査概報」となっています。県下でもその規模の大きさ、古さからいっても類を見ない製鉄遺跡とされています。(全国的に見ても、相当古い部類に属するといえるそうです)

この経緯を踏まえ、筆者は上郷開発が未だどうなるか分からない時に、開発を阻止する一助になればと市の教育委員会に電話をし、この発掘調査が未完のままの極めて重要な埋蔵文化財を調査するよう働きかけましたが、七石山横穴墓から出土した鉄剣のように「けんもほろろ」の対応でした。
横浜市の場合はまだ調べていませんが、一般的に教育委員会の委員なるものは、兼業で、月数回の委員会開催にもかかわらず、月給制で年間数百万円の報酬を得ている名誉職的な存在であり、開発を誘導している行政に楯付く訳がないのは浅墓にも後程知りました。
余談ですが、先進的な行政で有名な福島県矢祭町の町議は日当30,000円の出来高払いであり、平均年収120万円であることが先日、新聞に出ていました。おっと、ロマンを語るつもりが思わず現実に引き戻され、不満を語ることになってしまいました。

さて、この製鉄という先進技術を持った集団が大陸から渡ってきた帰化人ではなかったか、そして、思いを馳せながら故郷の風習に従ってこの横穴墓を穿ち、死者を葬ったのではないかなどと、ロマンに満ちた推測に誰憚ることなく夢を膨らませることができるのは、(この時代から生き続けている者は誰もいないので)考古学のいいところであろうと考えます。
次回は、この仮説を唱える根拠、製鉄に係る興味深い言い伝え(ヒョットコ、粉鉄八里に炭三里、一風二土三村下、代わり番子)なぞについて紹介したいと思います。

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高額報酬!!

T.Iさんの記事にある教育委員の高額報酬問題について調べてみました。
2007年の記事。それによれば、東京23区の教育委員の月額報酬は平均約24万5000円で、全国の市平均(政令指定都市を除く)の4倍近くに達し、都道府県平均も上回っていることが読売新聞の集計で分かった。
教育委員は非常勤で、教科書採択や教育関連条例案の審議などを行う教育委員会の開催は区の場合、月2回程度。
東京23区では、選挙管理委員の報酬も他自治体より突出していることが明らかになっているが、政府の教育再生会議でも教育委員の形骸(けいがい)化、名誉職化が指摘されるなか、報酬のあり方が問われそうだ。
教育委員は地方教育行政法に基づき、各自治体の首長が議会の同意を得て任命する。任期は4年。区の場合、定員は5人で、委員長は互選で決める。委員には弁護士や大学教授、会社経営者、元PTA会長などが就くことが多い。主な職務は教育委員会の出席で、このほか卒業式や地域の行事、学校の視察などに参加することもある。 
23区の2月現在の平均月額報酬は、委員長が約29万9000円、委員が約24万5000円。一方、総務省の2005年4月現在の調査では、報酬を月額で定めている全国659市の平均は委員長が約8万円、委員は約6万5000円。 ただ教育委員会の開催回数は23区が月平均約2回なのに対し、政令市以外の市町村平均は月約1回。都道府県の平均報酬は委員長25万1000円、委員21万6000円で、東京23区の方が高い。 
都内で比べると、都内26市の委員長は平均約12万6000円、委員は同約10万4000円で、23区は倍以上だ。 
教育委員や選管委員などの行政委員の報酬は条例で定められるが、区部の場合、金額の算定根拠は不透明だ。報酬は数年に一度見直されているが、慣例的に、区長や区議など常勤特別職の報酬に関する諮問機関の答申に連動させていることが多い。だが行政委員の報酬について議論する場は、どの区も設けていない。

うーん、優雅ですねえ。働けど働けど報われない派遣社員や就職難の大学生たちがこの数字を知ったら……?

現世(うつしよ)を 離れ静かに 噛む考古

「大昔からずっと生き続けてきた人はいないから、誰憚ることなく夢を膨らませることができ、考古学はよろしい」などと大言を吐かないように! ヤカン親父沸騰
真面目にコツコツと研究しておられる学者さんに敬意を表し、素人は控え目に、せめて「学」を付けず、静かに香香を噛むような気持ちで楽しんで貰いたい。
それから、「帰化人」という語には、日本中心的な意味合いを含むこと、全ての人が自らの意思で海を渡って日本に来たかどうかは不明確なこと、などから歴史用語としては不適切な用語であるとされ、現在では「帰化人」という語に代わって「渡来人」という語が使用されるのが主流となっているので注意をしてほしい。

帰化問題にトライ

「即沸薬缶」さんの鋭い指摘で、早速、問題の所在を確認しようとウイキペディアで調べました。主流&傍流いずれの説が歴史学界や言論界のトレンドとなっているのか全く無頓着だったと反省しています。そういえば昨今マスコミを賑わした朝青龍も「帰化」云々が話題になっていましたね。
というわけで反省をこめて、ウイキペディアの抜粋引用を。

かつては帰化人という呼び名が学会の主流であったが、「帰化」には日本中心的なニュアンスがあるとして上田正昭らにより「渡来人」の呼称が提唱され、学界の主流となった。しかし、「渡来」には単に渡ってやって来たという語義しかなく、倭国王(大王)に帰属したという意味合いを持たないため、やはり「帰化」を用いた方が適切だとする関晃・平野邦雄らの見解もある。

おっと、これは奈良朝頃の話ですね。
コロンブスの「アメリカ発見」は侵略史観だ。「到達とすべき」だなんていう意見に与する身として、この問題についてもう少し勉強することにします。もっとも、ややこしい論戦は他でやっていたきたいのですが。

さらにトライしました

朝青龍に限らず、親方株の取得をめぐって小錦、曙、武蔵丸、白鵬、旭天鵬など、力士になるため渡来(トライ)し活躍した外国人の帰化問題に関する記事がいろいろ載っていて驚きました。
帰化人とすべきか? 渡来人とすべきか? 
学界の論議はさておき、ややこしいですなあ、薬缶さん!

渡来か帰化か

M.M.さん
この問題?は奥が深いというより、ある種、根が深いところがあると感じています。
渡来、帰化、外来、移民、移動等、時代や使うケースによっても異なると思います。
人類がアフリカに発したのならば、全ての日本人は渡来人となるのか、外来人なのか、あるいは移民となるのか、はたまた、その時には日本に未だ人類は存在してないので、単なる移動なのか?
学者先生や(日本の)中華思想を持ちたい人などが、夫々の立場で張り合い、チマチマと御託を並べていますが、あまり権威を気にせず、自分流に歴史のスケールを大きく取り、気宇壮大に行きたいものだと思っています。
M.M.さんと同様、薬缶親爺も北米大陸の西部開拓史は西部侵略史であるという意見に与する方です。

渡来か帰化か追伸

送信してしまってから、帰化人という表記は注意するようにと親爺顔して書いたことを思い出しました。
何を隠そう、親爺もWikiに類するものを参照、ひとつの見解を読んで即沸かつ短絡的に意見を発した訳です。
M.M.さんのご指摘により、つらつら考えてみると、このような結論に達したというところです。

やぶ睨みトライ

薬缶さんの「追伸」に触発されて、渡来(トライ)ならぬ戸来(ヘライ)のことを思い出しました。戸来村は合併で消え、今では新郷村戸来地区になっているのですね。
青森に渡来したユダヤの民が帰化し戸来ができた……なんて、まるで駄洒落のようですが。
で、ついでにウイキペディアを読み進めると、「ユダヤの紋章(ダビデの星)と似た家紋を持つ旧家があり(旧家沢口家)、生まれた子供を初めて屋外に出す時、額に消し炭で十字を書いたり、足が痺れた時は人差し指にみそをたっぷり付けて額に十字を三回書いたり、歯痛のときは薬指にからしをたっぷりつけて左目にすり込むという風習がある。」とありました。
うーん、こんな風習はじめて知りました。日本は狭いようで広いですなあ。ましてや「単一民族説」では計り知れないことがゴマンとあるようです。

引用をさせてください。

古代製鉄
はじめまして!
ブログ「鎌倉街道を探そう!」を書いているぼ輔です。
東山道武蔵路と言う古代道路をご存知でしょうか?
奈良時代の1000年以上前、
路面幅12mも在る直線道路で、北は群馬の足利から東京の府中迄の道が見つかっています。
その直線の方向は、江ノ島を向いています。
そして、ドリームランド辺りから曲がり、大船鎌倉へと向かう。

この道の一部と考えられる道が、笠間中央公園遺跡で見つかっています。何故この様な大きな道が鎌倉へ向けて作られたか?
鎌倉の製鉄を目当てに、奈良の朝廷が道を作った。
その基が「深田製鉄遺跡」という想定で記事を書くのですが、、、

上郷開発予定地のこと
深田製鉄遺跡に連なる蘊蓄 (2010-02-17)
この記事の一部を引用させて頂けると嬉しいのですが、、、
よろしくお願いします。

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了解しました!

遅くなりました。
本ブログをご愛読?くださり有難うございます。
記事の引用、どうぞご自由になさってください。
舞岡上郷線の下に眠る深田製鉄遺跡についてはまだまだ歴史ロマンが隠されており、様々な形で関連記事が書かれることを期待しています。
プロフィール

上郷/署名の会

Author:上郷/署名の会
横浜7大緑地の1つ「瀬上市民の森」に連なる瀬上沢はホタルの自生地として知られ、貴重な動植物が生息する自然の宝庫です。またみどり豊かな里山風景を今に残し、古代の製鉄遺跡や江戸時代に使われた横堰などの文化遺産も眠る横浜市民共有の財産とも言うべき緑地です。
その瀬上沢に大規模な上郷開発計画が浮上したのは2005年。瀬上沢を愛し、それぞれに保全運動をしてきた市民は、2007年6月に「上郷開発から緑地を守る署名の会」を結成、開発計画の中止と緑地の全面保全を求める活動を開始し、同年12月、市内全域はもとより全国各地から寄せられた92000筆あまりの署名を添えて横浜市長と市議会に陳情書を提出しました。
2008年9月、横浜市都市計画審議会は計画を承認せず、「上郷開発事業」は中止となりました。しかし地権者でもある開発事業者・東急建設は引き続き「開発の意思」を表明。2012年1月、ついに第3次開発計画の事前相談書を横浜市に提出しました。私たち「署名の会」はあらためてこの開発プランの問題点を指摘、瀬上沢の全面保全を求めて新たな活動を開始しました。
そして2014年1月に始まった新たな動きがいま地域の住環境・自然環境を揺るがす重大な岐路に……。

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