瀬上沢通信員だより:スペシャル
護念寺縁起と江戸時代の緑地保全策 その1
樹林地守るため寺を建立
先日の円海山ウォークイベントで、護念寺のご住職からお寺の縁起について話を伺った。
要約すると、
・400年ほど前まで遡る念仏道場があったところに、徳川将軍の命で宝暦2年(1752年、将軍は9代家重)、あたり一帯の樹林地を護る目的で護念寺が建立された。
・寺は高僧の隠居寺として代々受け継がれてきた。
・第5代の萬随和尚が嘉永6年(1853年)、夢枕に拝授した灸を施してより円海山護念寺の名が広まり、「峯の灸」で知られるようになった。
・かつて杉田の磯で海苔養殖が盛んだった頃は、お寺の孟宗竹が海苔篊(のりひび)と、その浮きに使われた。油成分を多く含むこの地の竹は耐久性が高く好評で、伐採限度ぎりぎりまで切り出された。
家重の肖像画(徳川記念財団蔵=ウイキペディアより)

海苔ヒビ(富津市立富津埋立記念館資料から)
で実は「将軍が江戸時代、樹林地を護る目的で」とそこまで聞いたとき、最近目にした新聞の書評のことを思い出した。
あらためてスクラップにあたると、ジャレド・ダイアモンド博士が『文明の崩壊』という著書のなかで、日本では将軍のトップダウンによる施策により世界で唯一、森林保全に成功した国、と讃えている。
関連注記:富津における海苔養殖技術の変化
竹ヒビ(たけひび) 孟宗竹を使用した海苔ヒビで、富津で海苔養殖が開始された昭和5年から使用された。海苔養殖の開始が早かった人見・青堀地区では江戸末期~明治時代から使用されていた旧来からの海苔ヒビで、昭和24年に化繊の海苔網が使用されるようになってからは少なくなったが、昭和30年代中頃までは補助的に使われていた。
(つづく)
樹林地守るため寺を建立
先日の円海山ウォークイベントで、護念寺のご住職からお寺の縁起について話を伺った。
要約すると、
・400年ほど前まで遡る念仏道場があったところに、徳川将軍の命で宝暦2年(1752年、将軍は9代家重)、あたり一帯の樹林地を護る目的で護念寺が建立された。
・寺は高僧の隠居寺として代々受け継がれてきた。
・第5代の萬随和尚が嘉永6年(1853年)、夢枕に拝授した灸を施してより円海山護念寺の名が広まり、「峯の灸」で知られるようになった。
・かつて杉田の磯で海苔養殖が盛んだった頃は、お寺の孟宗竹が海苔篊(のりひび)と、その浮きに使われた。油成分を多く含むこの地の竹は耐久性が高く好評で、伐採限度ぎりぎりまで切り出された。

家重の肖像画(徳川記念財団蔵=ウイキペディアより)

海苔ヒビ(富津市立富津埋立記念館資料から)
で実は「将軍が江戸時代、樹林地を護る目的で」とそこまで聞いたとき、最近目にした新聞の書評のことを思い出した。
あらためてスクラップにあたると、ジャレド・ダイアモンド博士が『文明の崩壊』という著書のなかで、日本では将軍のトップダウンによる施策により世界で唯一、森林保全に成功した国、と讃えている。
関連注記:富津における海苔養殖技術の変化
竹ヒビ(たけひび) 孟宗竹を使用した海苔ヒビで、富津で海苔養殖が開始された昭和5年から使用された。海苔養殖の開始が早かった人見・青堀地区では江戸末期~明治時代から使用されていた旧来からの海苔ヒビで、昭和24年に化繊の海苔網が使用されるようになってからは少なくなったが、昭和30年代中頃までは補助的に使われていた。
(つづく)