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八ッ場ダムを知っていますか:入門編

「署名の会」とも様々な活動を通じて友好関係にあるパタゴニア日本支社のサイトに「八ッ場ダムを考える会」事務局の渡辺 洋子さんのレポートが載っています。今回の中止問題以前に書かれたものですが、ウェブサイトをあれこれ検索するのはどうも……という方のために勝手に転載します。
 
渡辺さんはこのレポートの中で、「日本のいたるところで自然破壊が進んでいるなか、川原湯や川原畑のような山村がいまだにダムの底に沈んでいないのは、もしかして奇跡なのかもしれません」と記します。
横浜という巨大都市の都心からわずか15キロたらず?のところに奇跡のように残された瀬上沢のみどり豊かな自然。
「瀬上沢を知っていますか。いまならまだ間に合います」
国と私企業……相手こそ異なれ「思い」を共有する方も多いのでは?  M&M

八ッ場ダムを知っていますか
by 渡辺 洋子

東京の上野駅から特急草津に乗って2時間あまりで着く群馬県長野原町の川原湯温泉駅。そこはダムの水没予定地のど真ん中であり、小さな白い駅舎を背にして国道を左に数分歩くとダムができる予定の吾妻渓谷に着きます。その谷間を身をくねらせるようにぬって流れる吾妻川は、かつては急峻な岩山にさえぎられ、ここから下流には流路がなかったそうです。けれども数十万年のあいだに水の流れが岩を削り、谷を開き、やがて吾妻川は関東平野の入り口で利根川本川に注ぐようになりました。その長い年月がつくり出した景観は国の名勝に指定されており、両岸にせまる自然林が新緑や紅葉に染まる時期は多くの観光客が訪れますが、静かな冬、雪におおわれた寂しい谷間を眺めながら歩くのもいいものです。そんな吾妻渓谷の左岸の林と岸壁がバッサリと削られたのは2008年7月のことでした。八ッ場(やんば)ダム建設のために吾妻川をバイパスさせる工事が始まったのです。

八ッ場とはこの谷間の左岸を指す地名です。国が八ッ場ダムの構想を最初に発表したのは終戦後まもなくの1952年のことだったそうです。それから半世紀以上の歳月が流れるあいだ、利根川上流には次々と巨大ダムが完成していきました。つまり八ッ場ダムの建設目的はとうに失われてしまったのです。にもかかわらず、一度始まった公共事業はなかなか止まりません。国土交通省は、吾妻川のバイパス工事が終われば、この首都圏最後のダムの本体工事にとりかかる予定だといいます。けれどもダムを造るには、その前に沈む予定の鉄道や道路の代わりとなるライフラインを造らなければなりません。また水没予定地に住む数百世帯の住民の移転地も造成する必要があります。関連工事があまりに多いため、八ッ場ダムに投入する税金は全国のダム事業費のトップに膨れ上がってしまいました。ところがさらに、関連工事は遅れに遅れています。

八ッ場ダムが完成すると、吾妻渓谷上流部の340世帯(1979年当時)の生活の場が呑み込まれてしまいます。水没予定地のうち世帯数がもっとも多いのが川原湯温泉のある川原湯地区で、そこは岩から自然にしみ出す柔らかいお湯を売り物にしてきた土地で、「草津の仕上げ湯」といわれています。800年の歴史を誇るというこの温泉街をはじめて訪ねたのは10年以上前のことだったでしょうか。わびしげな温泉街の入り口におびただしい数のヤママユガがいて、観光客気分が吹っ飛んだことを覚えています。ヤママユガは日本在来の代表的な野蚕であり、その天蚕糸の特長と希少価値から「繊維のダイヤモンド」とも呼ばれています。それから何度か川原湯を訪ねましたが、昭和20~30年代のタイムカプセルに閉じ込められたような家々と、礎石が残る空き地が点在する町並みになぜ重苦しい空気が淀んでいるのか、東京育ちの私にはなかなかわかりませんでした。ここでは1965年から20年以上におよび激しいダム闘争が繰り広げられたそうです。当時の記録には住民の大多数は反対だったとありますが、ダム闘争の第一世代が病に倒れたあと、ダム計画のなかで育った次の世代が闘争を引き継ぐことはありませんでした。国との闘いに疲れ果て、最終的に地元が白旗を掲げたのは1992年。ダムの関連工事は1994年から始まりました。ダムを受け入れた土地ではかつての闘士は身を小さくし、ダムに反対する声が表立って聞かれることはありません。ダム計画に疑問を抱き、なかなか土地を手放そうとしない地権者は、補償金を吊り上げたいのだろうと口さがなく非難されます。ダムという袋に閉じ込められ、地元の住民同士が傷つけあう痛ましさ。けれどもそのダムは、そうした地元の人たちのためにではなく、東京をはじめとする首都圏のために造られることになっているのです。かつて国に対立していたという旅館の玄関の頭上には水没線の「586メートル」を示すプレートが掲げられ、そして水没線上にある旅館の壁には未来のダム湖に泳ぐ魚の絵が描かれています。温泉街の裏山ではトンネル工事が進んでおり、補償金を受け取った人は家を壊して出て行ったため、温泉街は櫛の歯が抜けたようです。対岸の景色も日ごとに変わっていきます。山は大規模な道路建設のために発破で次々と崩され、沢という沢には幾重もの防災ダムが造られています。

対岸の川原畑も、川原湯と同じようにすべてがダムに沈む予定です。温泉街のある川原湯は北向きですが、対岸の川原畑は南向きでいつでもぽかぽかと日が当たっています。JRの温泉駅から徒歩10分と交通至便な川原畑ですが世帯数はかつての四分の一に減り、いまは20軒しか残っていません。移転していってしまった家の空き地に残る栗や梅や柿の木や、細い道端に佇む古い石仏を目にすると、この土地の人びとは自然と溶け込んだ生活の厳しさも、そして温かさもよく知っているにちがいないと感じます。小高い丘に登ると、対岸の川原湯温泉街がよく見えます。ここから見ると川原湯温泉すべてがすっぽりと裏山にうずまり、自然の懐に抱かれているのがよくわかります。山の稜線が浮かび上がる、日本の原風景のような里山の景色を眺めていると、なぜかとても懐かしい気持ちになります。
この川原畑では、いま大規模な遺跡の発掘調査が行われています。縄文遺跡からはじまり、さまざまな時代の遺跡が発掘されており、そのなかには江戸時代天明3年の浅間山噴火で埋もれた人家跡もありました。八ッ場から上流20キロ地点にあるわが国有数の活火山の浅間山が大噴火を起こすたびに、吾妻川を泥流が襲った記録があります。天明3年噴火の際、浅間山の泥流は30分足らずで八ッ場に達し、狭い渓谷に巨岩や流木が詰まったあげく逆流現象を起こした泥流により、渓谷上流部の河岸段丘に泥土が厚く堆積しました。いま畑として使われている土地も深く掘ると天明3年の泥流の跡が出てくるといいます。噴火直後、土地の人びとはどれほど困窮したことでしょう。けれどもそれから200年以上の年月が経ったいま、水没予定地の畑は肥沃になりました。何世代もかけて土地を肥やしてきた人びとの苦労が、子孫に豊かな実りをもたらしているのです。川原湯温泉は第二次大戦中、東京・新宿の小学校の学童疎開を受け入れており、短期間ではありましたが東京の疎開児童と地元の児童が地元の小学校で共に生活した時期がありました。東京の子供たちが「飢え」の話をするのを聞いて、地元の農家の子供たちは「飢え」とはどういうものだろうと不思議がったといいます。吾妻谷の農民は、戦争中も飢えることなどなかったのです。

日本のいたるところで自然破壊が進んでいるなか、川原湯や川原畑のような山村がいまだにダムの底に沈んでいないのは、もしかして奇跡なのかもしれません。八ッ場ダムの予定地は、自然をコントロールしようとする人間の企てがどれほどエネルギーを必要とし、どれほど大きな犠牲を強いるのかを物語っているように思えます。ダム湖ができれば将来世代にとって大きな負の遺産になるのは目に見えています。いまから半世紀以上をさかのぼり、すべてを白紙にすることはできなくとも、それでもダムの本体工事が中止になれば少なくとも再生の可能性はあります。いま必要なのは、少しでも多くの首都圏の人びとに、現地を見てもらうことでしょう。なぜならこのダムの巨額の建設費用は国税として一般国民に、またダム貯水が水道用水や工業用水として供給されることになる茨城、栃木、群馬、埼玉、千葉、東京の1都5県の住民の肩には、都県民税や水道料金として、将来にわたって重くのしかかることになるからです。「八ッ場ダムを知っていますか。いまならまだ間に合います」

◎著者のプロフィール
東京で生まれ、結婚後に群馬県に移住。2002年より市民団体<八ッ場ダムを考える会>の事務局を務める。岩波ブックレット『八ッ場ダムは止まるか』(2005年岩波書店発行)を企画編集。2006年の『八ッ場いのちの輝き』コンサート開催を機に八ッ場ダムを考える会を継承/発展させる目的で<八ッ場あしたの会>発足。現在は同会の事務局長を務める。

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公共工事

八ん場ダム、川辺川ダム、横浜駅大改造工事、市役所の新築日本の役人は公共工事が大好きだ。公共工事と言えば箱物作り、道路作り、何とかかんとか理屈をつけて鉄とセメントを使った工事をする。かって飛行機の飛ばない飛行場、船の来ない港、車が通らない道路作りが問題になった。
工事費は我々の税金か赤字国債の発行で賄う。戦後こんな事ばかりやってきた役人は、先輩達の習性を見習って一人前になるのだから、自分も箱物を作っていないと仕事をしていないと勘違いしてしまうのだろう。
その連中が箱物以外の事をやるから失敗する。
150万本植樹運動とか、開国150周年事業とか失敗した。大体子供さんが大勢くる博覧会に6億円とかするお化けの様な蜘蛛を博覧会の目玉とする神経が判らない。蜘蛛の好きな人はまずいない。失敗したら責任者は親分も子分も夜逃げ同然で逃げてしまう。
退職金払うのかしら。
これからは、人口減少社会、高齢化社会、お金を使うのならば、人に優しい街づくり、人の心を癒し、心身を健康にする、散策の出来る森づくり等に投資の方向を変えるべきではないだろうか。
新しい林市長は市民の声に耳を傾けたいと言われている。
市政のあり方に市民が良く目をひからせ、一々チェックしていかないと、この街はよくならないとつくずく思う。

No title

明日小網代の森の下見に行ってきます。
皆さんと三崎口まで行くだけの価値があるのか、確認です。
入り口から出口までの距離は約900m標高差約60m地形図で見ると、海の傍の変哲のない地形です。
しかし、これだけ有名になるからには、何かが有るのでしょう。
想像していても何も解決しないので、ともかく見てきます。その結果は、後ほどお知らせします。ガッカリしないで下さいね。h2bkyyk5
プロフィール

上郷/署名の会

Author:上郷/署名の会
横浜7大緑地の1つ「瀬上市民の森」に連なる瀬上沢はホタルの自生地として知られ、貴重な動植物が生息する自然の宝庫です。またみどり豊かな里山風景を今に残し、古代の製鉄遺跡や江戸時代に使われた横堰などの文化遺産も眠る横浜市民共有の財産とも言うべき緑地です。
その瀬上沢に大規模な上郷開発計画が浮上したのは2005年。瀬上沢を愛し、それぞれに保全運動をしてきた市民は、2007年6月に「上郷開発から緑地を守る署名の会」を結成、開発計画の中止と緑地の全面保全を求める活動を開始し、同年12月、市内全域はもとより全国各地から寄せられた92000筆あまりの署名を添えて横浜市長と市議会に陳情書を提出しました。
2008年9月、横浜市都市計画審議会は計画を承認せず、「上郷開発事業」は中止となりました。しかし地権者でもある開発事業者・東急建設は引き続き「開発の意思」を表明。2012年1月、ついに第3次開発計画の事前相談書を横浜市に提出しました。私たち「署名の会」はあらためてこの開発プランの問題点を指摘、瀬上沢の全面保全を求めて新たな活動を開始しました。
そして2014年1月に始まった新たな動きがいま地域の住環境・自然環境を揺るがす重大な岐路に……。

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