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「評価委」の審議に向けて 討議資料―2

上郷深田遺跡とはどういうもの? 解明待たれる県内唯一の製鉄遺跡

12日に迫った、市の「都市計画提案評価委」による東急建設への24項目に及ぶ「確認事項」の回答期限。
ここであらためて注目すべき確認事項(質問書)の一つが17番目にあげられた舞岡上郷線道路下に眠る深田製鉄遺跡等の埋蔵文化財問題です。

私たちは上郷瀬上における貴重な文化財の発掘・調査・保全を求めて、担当部局である教育委員会はじめ市長・市会に対して重ねて要望書を提出、またこれまでも遺跡に関するレポートを何度か掲載(2010.7ほか)しているのですが、文化遺産・史跡保存の必要性について国民的な関心が高まる中、深田遺跡をどう位置づけ、発掘・調査・保全そして市民への公開への道筋を示すか、東急建設の回答、またそれに基づく評価委における教育委員会の対応に注目しています。

以下、上郷開発事業計画案において深田製鉄遺跡問題を考えるにあたって第三者的な視点をふまえておくため、横浜市埋蔵文化財センターのHPに掲載されたQ&Aから。(『埋文よこはま』21号=2010.2月刊、調査報告)

7世紀中頃から9世紀前半に造られた

Q : 上郷深田遺跡について教えてください
栄区上郷町にある製鉄遺跡について、次の3つについて教えていただきたいと思います。
質問1 古代の製鉄に際して、大和王権の製鉄は初期は岩鉄(鉄鉱石)を使用していたと聞きましたが、上郷深田遺跡で行なった製鉄の原料としていたのは鉄鉱石と砂鉄のどちらでしょうか?
質問2 その原料はどこから採取されたと考えられていますか?
質問3 私は作られた鉄は大和王権の対蝦夷の武器に使用したものと推測していますが、いかがでしょうか? 
*遠藤吉隆(港南区)さんからのご質問

A 上郷深田遺跡は、1986年に舞岡上郷線整備事業に伴って発掘調査された神奈川県内で唯一の製鉄遺跡遺跡として知られている遺跡です。 南東向きの急斜面をひな壇状に削りだし平場を造り、そこに製鉄関係と思われる18基の炉(うち14基は製錬炉)や鍛冶炉(小鍛冶)を有する竪穴状遺構、多量の砂鉄が底面に接して検出された竪穴状遺構や柱穴列など多くの遺構が構築されていることが分かりました。これらの遺構は、出土遺物の特徴から7世紀中頃から9世紀前半に造られたものと考えられています。また、遺物の中には藤原宮出土の土器に代表されるような畿内の暗文(あんもん)の入った盤状坏なども確認されています。
では質問にお答えします。

    20100724165250751_2014120813510903f.jpg
  上郷深田遺跡で見つかった製錬炉(左)と特殊遺構(右)

質問1の製鉄に関わる原料についてですが、上郷深田遺跡の製鉄炉の壁面部材に付着している成分や鉄滓(てっさい)と呼ばれる鉄を作る際に発生するカスの成分を東京工業大学の川野邊教授(当時)に分析を依頼したところ、その成分から砂鉄を原料としていたとの、中間報告が出されています。

質問2の原材料の採取場所ですが、こちらはどこであるか特定されていません。遺跡の基盤層である上総層群の野島層などに砂鉄分が含まれていることは知られていますが、いくつもの精錬炉を繰り返して操業するためには、大量の土を砕いて砂鉄を採取しなくてはならず、こうした砂鉄を採掘したと考えられるような痕跡が周辺にないことから、七里ケ浜や稲村ケ崎のように容易に砂鉄が採取できるところから持ち込まれたと考える方が良いと思われます。

質問3の作られた鉄の使用目的ですが、こちらについても不明と言わざるを得ません。一般的に製錬作業とは原材料から鉄の塊を作り出す作業で、この作業で得られた鉄塊はさらに不純物等を取り除く作業(精錬)をしなければなりません。こうした工程をへてできた鋼をさらに小鍛冶と呼ばれる作業で製品にしていくのですが、上郷深田遺跡では小鍛冶を行なったと考える遺構は、わずかにひとつ確認されているだけで、この製鉄遺跡内で使用するための小規模な鍛冶(道具や日用品を作る)が行なわれていたのではないかと考えられています。ですから、上郷深田遺跡は主に精錬(製鉄)を行なう遺跡であって、この場所で武器等を作ることは行なわれていなかったのではないでしょうか。ただ、出土遺物の中には獣脚鋳型なども含まれており、未だ調査されていない部分に鍛冶炉が存在し、鉄製品や鋳造品を作っていた可能性は否定できないことを付け加えておきます。

時代は異なりますが、近世などの鍛冶場(いわゆる製鉄場)は一般的な集落から離れた位置に設けられたようです。これは、原料の調達(砂鉄・薪・粘土)、製錬~精錬~小鍛冶にいたる各種製造工程をこなすためには、河川に開析された沖積地縁辺の丘陵では成り立たなかったからでしょう。また、特殊な技術を必要とすることなどから、鍛冶関連を行なう人々だけでひとつの集落を形成していたようです。職種は違いますが、サーカスの集団みたいなものでしょうか。
近接した丘陵上には上郷猿田遺跡があります。この遺跡は縄文時代後期の竪穴住居跡のほか、上郷深田遺跡の製錬炉が操業していた時期の竪穴住居跡が検出されているため、上郷深田遺跡との関連性が考えられています。今後、周辺の発掘調査がなされることがあれば解明していくのではないでしょうか。


なお埋文のHPは次のURLをご覧ください。
Https://www.rekihaku.city.yokohama.jp/cms_files_maibun/pr_brochure/my21S.pdf

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「かなくそ」で道普請

深田製鉄遺跡について、光明寺の前住職が「この近辺では、かなくそ(鉱滓)がいくらでも出てきて、道普請の際には砂利代わりに道路に敷いたほどである。」と語られたのを覚えています。
やはり、道路工事の際に大規模な製鉄遺跡が出てきたわけで、200年間も続いたのなら、この話も合点がいくというものです。

発掘のしてみたら、想像していたものより規模が大きく、かつ充実していたため、一旦埋め戻して保存し、その本格調査は先に委ねるという形を取っているとのことです。
この記事でURLが紹介されている「埋文よこはま21」には地図が出ていて、舞上線道路の下から尾根に沿って相当上の方まで遺跡が眠っているようです。
本格的に調べれば、もっと後の時代まで製鉄が続けられていたことが分かるかも知れません。

当時は製錬の際に高温を得るための、風を送る「ふいご」が実用化されておらず、この地の特性である「風の通り道」を活かし、尾根に沿って製鉄炉が造られたのではないかといわれています。現地の地形などが分かる写真があれば掲載してください。

蛇足ながら、質問2および3の答の中の精錬(製鉄)は製錬の誤植だと思われます。
プロフィール

上郷/署名の会

Author:上郷/署名の会
横浜7大緑地の1つ「瀬上市民の森」に連なる瀬上沢はホタルの自生地として知られ、貴重な動植物が生息する自然の宝庫です。またみどり豊かな里山風景を今に残し、古代の製鉄遺跡や江戸時代に使われた横堰などの文化遺産も眠る横浜市民共有の財産とも言うべき緑地です。
その瀬上沢に大規模な上郷開発計画が浮上したのは2005年。瀬上沢を愛し、それぞれに保全運動をしてきた市民は、2007年6月に「上郷開発から緑地を守る署名の会」を結成、開発計画の中止と緑地の全面保全を求める活動を開始し、同年12月、市内全域はもとより全国各地から寄せられた92000筆あまりの署名を添えて横浜市長と市議会に陳情書を提出しました。
2008年9月、横浜市都市計画審議会は計画を承認せず、「上郷開発事業」は中止となりました。しかし地権者でもある開発事業者・東急建設は引き続き「開発の意思」を表明。2012年1月、ついに第3次開発計画の事前相談書を横浜市に提出しました。私たち「署名の会」はあらためてこの開発プランの問題点を指摘、瀬上沢の全面保全を求めて新たな活動を開始しました。
そして2014年1月に始まった新たな動きがいま地域の住環境・自然環境を揺るがす重大な岐路に……。

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